クロスボーダM&Aに関する留意点
では、どのような企業価値を求めて買収すべきでしょうか? まず、製品、製造するライン設備、開発ノウハウ、販売チャネル、ブランド価値など、その資産が頭をよぎることと思います。自前で進出することに比べ、「時間を買う」のがM&A戦略であり、この考えは間違っていません。しかし、これに加えて忘れてはいけないことがあります。M&Aで買収した先の従業員、かけがえのない「人材」です。
土地や建物などの不動産を購買し、その運用で得られる収益を目的とする不動産投資事例を除き、企業がM&Aで獲得したいものは、現地に根を下ろしている買収先企業の継続的事業運営そのものです。設備、開発ノウハウ、販売チャンネル、ブランド価値などの資産を現地に根ざした事業として活用するためには、買収先の人材が欠かせません。
継続的事業運営そのものが買収資産の核心だという視点を欠く場合は、設備、開発ノウハウ、販売チャンネル、ブランド価値などの資産に対して、それを維持、運営していく人材の価値を低く見積もってしまいがちです。そのため、買収は完了したものの、現地で継続的な事業運営を行ってきた人材が一斉に離散してしまったという悲劇に見舞われるケースもあります。いったんそうした状態に陥ってしまえば、十分活用できない資産のみが手元に残るばかりで、継続した事業収益を上げることができなくなってしまいます。これでは、M&Aの意味がありません。また一般的に、研究開発力や顧客への提案・販売力といった人の能力に依存する度合いが高いビジネスほど、買収後の人材一斉退社による企業価値段損のリスクが高いことに留意すべきです。
毛利氏は、国は違っても「人はパンのみにて生きるわけではないので、やはり企業理念は非常に重要です。意気に感じて働くことがとても大事だと思います」と、その核心を突きます。日本企業が実施した海外M&Aにおける実際の成功事例として、買収した会社のトップ自らがその企業理念を現地工場のリーダーレベルにも語る姿が、現地の良い人材をリテンション(維持・確保)することにつながったとのことです。
現地人材のリテンション
最近のM&A成功のポイントとして語られるのは、こうした「良い人材をリテンションすること」ですが、自動車の組み立てが海外で行われ始めた国際化の第一段階では様子は違っていました。当時は、必要なスキルを持つ日本人を現地に送り込み、日本が世界に誇る生産管理の手法を現地に根付かせつつ、現地での事業運営を軌道に乗せることが何とか可能でした。しかし、現地の需要をとり込む必要がある国際化の第二段階ではこのやり方は通じません。
そのため、最近の日本企業による大型の買収では、現地人材のリテンションを最大限重視することで、人材の流出を防ぐ努力をしています。またシニアマネジメントレベルにおいても、買収前の経営陣をそのまま続投し、それまでの経営スタイルを尊重するケースが多いようです。ただし、買収前と同じ経営陣が従来と同じ経営をしたのでは、新しい価値を産みだすことはできません。また、何のために買収したのか判りません。
毛利氏は、ある日本企業の成功例として「日本本社と買収した会社のトップが共同で全役員に新経営方針を説明するとともに、インタビューを実施し、それまでの役員の多くを責任の立場からステップダウンさせたという事例をあげます。それによって緊張感が生まれ、残ったマネージメントチームがパフォーマンスを発揮する条件が整ったという事例があります」と説明します。
消極的な権限委譲状態もおきているのが実態
このような、いわば意図した積極的な権限委譲を行った場合、M&Aによる人材流出の食い止めには一定の効果があります。しかしこれと似たように見えながらも、事実上の権限委譲状態が、ずるずると長期間継続してしまう場合もあります。これは、合併後の事業シナジーの再構築など「攻めの分野の改革」に追われてしまい、「守りの分野である管理面」まで手が回らないという状態です。
買収後も子会社の自治に任せて放置した結果、あたかも現地の人材を尊重して積極的リテンション施策をとっているかのようでありながら内実が異なっているというケースです。このため、表面上は平穏でも内側に大きな火種が放置されている状態となっているかもしれません。
加えて、合併によってシナジー効果を最大限あげようとしたM&Aのそもそもの意図が、営業などの攻めの分野だけにとどまり、基本的な経営管理という守りの分野にまで波及していないのは片手落ちです。毛利氏も「結果的に放置されて、見えていないという状態が非常に危ないですね」と注意をうながしています。
- 第1回:海外子会社経営失敗のパターン
- 第2回:失敗しない「クロスボーダーM&A」のために
- 第3回:地域統括拠点とガバナンス・リスクマネジメント・コンプライアンス(GRC)
- 第4回:海外子会社に対するガバナンスの導入方法とは
- 第5回:ASEAN地域でコンプライアンスを徹底させるために
- 最終回:新興国におけるリスクマネジメント
毛利 正人 氏
東洋大学 国際学部 グローバル・イノベーション学科 教授
GRCアドバイザリー 毛利正人事務所代表
米国公認会計士、公認内部監査人、公認情報システム監査人
早稲田大学政治経済学部卒業(経済学)、米国ジョージワシントン大学修士課程修了(会計学)。国内大手企業、国際機関(在ワシントンDC)、大手監査法人エンタープライズリスクサービス部門ディレクター、外資系リスクコンサルティング会社代表を経て現職。日本企業の海外子会社に対するコーポレートガバナンスサービスを専門としており、欧州、米州、オセアニア、アフリカ、アジア、中国などの世界各地で、内部監査、リスクマネジメント、買収海外子会社の調査、コーポレートガバナンス体制導入のためのプロジェクトを数多く実施。著書に『リスクインテリジェンスカンパニー』(共著、日本経済新聞出版社、2009年)、『内部監査実務ハンドブック』(共著、中央経済社、初版:2009年、第2版:2013年)、『図解 海外子会社マネジメント入門』(東洋経済新報社、初版: 2014年)がある。