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社長対談 人となり 元プロ・サッカー選手、一般財団法人 TAKE ACTION FOUNDATION 代表理事、株式会社 JAPAN CRAFT SAKE COMPANY 代表 中田 英寿氏

IIJ.news Vol.185 December 2024

各界を代表するリーダーにご登場いただき、その豊かな知見をうかがう特別対談“人となり”。第30回のゲストには、プロ・サッカー選手として日本サッカー界を牽引し、現在はビジネス、社会貢献活動など幅広い分野で活躍されている中田英寿氏をお招きしました。

元プロ・サッカー選手

一般財団法人 TAKE ACTION FOUNDATION 代表理事
株式会社 JAPAN CRAFT SAKE COMPANY 代表

中田 英寿氏

1977年生まれ。山梨県立韮崎高校卒業後、Jリーグ・ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)に入団。96年、アトランタ・オリンピックにチーム最年少で出場。98年、伊セリエAのA.C.ペルージャに移籍し、日本人の海外移籍への門戸を開く。伊および英のチームで活躍し、日本代表として戦ったドイツW杯(2006年)のブラジル戦を最後に29歳で現役を引退。その後、世界をめぐる旅に出る。09年、一般財団法人TAKE ACTION FOUNDATIONを設立。同年から全国47都道府県をめぐる旅を始め、日本の伝統文化・工芸を探究する。15年、株式会社JAPAN CRAFT SAKE COMPANYを設立し、日本酒・日本茶・工芸など伝統産業の普及活動・魅力発信を行なう。国際サッカー評議会(IFAB)諮問委員。

株式会社インターネットイニシアティブ

代表取締役 社長執行役員

勝 栄二郎

自然のなかで育った少年時代

勝:
まずは中田さんの幼少期のことをうかがいたいと思います。小さい頃は、どのような環境ですごされましたか?
中田:
生まれは山梨の甲府です。山に登ったり、川遊びをしたり、湖で釣りをしたり――自然が当たり前のように生活のなかにありました。鬼ごっこをしていて他人の家の屋根に上ったり、学校に行く時に川を渡って近道したり、子どもらしいヤンチャもしました。豊かな環境で育ったことが、後年、スポーツをやるうえでも役に立ったと思います。
勝:
ご家族は?
中田:
両親は働いていて、「これをしろ、あれをしろ」と言われることはなかったです。父は野球をやっていたので、僕がサッカーを始めると、サッカーのことというよりは、スポーツに対する姿勢を熱血的に教えてくれました。
勝:
サッカーを始めたキッカケは?
中田:
当時は野球が一番人気で、僕も最初は野球をやろうとしたんですけど、けっこう厳しかったうえに、坊主にしろって言われて……(苦笑)。それで少年団のサッカーチームに小学3年生の12月に入れてもらって、サッカーを始めました。

サッカーはちょうど『キャプテン翼』が連載中で人気が出だした時期でしたが、日本はまだW杯に出たこともなかったし、Jリーグも発足前で、海外サッカーに関する情報源といえば、テレビ東京の『ダイヤモンド・サッカー』くらいでした。当然「将来はプロになる。W杯に出たい」なんて考えはまったくなかったです。
勝:
ポジションはどこでしたか?
中田:
いろいろ試してみたかったので、ゴールキーパーも含めて全ポジションを経験しました。結局、どこへでも動いていいのが面白く、ミッドフィルダーに落ち着きました。
勝:
その頃からお上手だった?
中田:
子どもですから、足が速いとか、体力があるやつが凄いといった世界でした。2つうえに兄がいたのですが、サッカーを始めたのは僕が先で、あとから兄もチームに入ってきました。兄の友達と遊ぶこともよくあったので、上級生との練習や試合もあまり気後れすることはありませんでした。中学に入ると、中3に兄がいますから、そこでもみんな顔なじみです。そんなふうにサッカーを始めたので“先輩・後輩のなさ”というのでしょうか、上下関係を意識しないチームメイトとの接し方が自然と身につきました。
勝:
『キャプテン翼』は、多くのサッカー少年に影響を与えたようですね。
中田:
大空翼を真似て、小学校の砂場でオーバーヘッドキックの練習をしたりして、ただただサッカーを楽しんでいました。
勝:
その甲斐あって、ペルージャでは前から来たボールをオーバーヘッドキックでゴールするという、かつて見たこともないような圧巻のプレーを成し遂げられましたね!

海外への眼差し

勝:
海外を意識するようになったのはいつ頃ですか?
中田:
中学の時、運良くU‒15(15歳以下の日本代表)に選ばれて、その後もユースなど各年代の代表として、さまざまな国へ海外遠征に連れて行ってもらいました。その経験が大きかったと思います。10代半ばから、のちに各国のプロ選手になるような若手とも対戦していたので、「もう少し頑張れば、対等にやれそうだな」と、プロを意識したり、海外を意識するキッカケになったと思います。
勝:
1998年、日本がW杯に初出場し、その直後、弱冠21歳でイタリア・セリエAのペルージャに移籍されました。
中田:
実は(W杯に出る前)、18歳でベルマーレ平塚に入ってプロになった年のシーズンオフに、イタリア・セリエAのユヴェントスの練習に1カ月間、参加しました。
勝:
ユヴェントスですか!
中田:
結局、ユヴェントスのトップチームではなく、下部(2軍)のプリマヴェーラでの練習になったのですが、ベルマーレ入団時に(短期留学を)契約に盛り込んでもらっていたのです。
勝:
先見の明ですね。
中田:
そうした経験もしていたので、「海外は遠い」といった印象はまったくなく、W杯では海外移籍を前提にプレーしていました。
勝:
イタリアに行かれた当初はご苦労も多かったのでは?
中田:
そうですね。当時はアジアの選手はほとんどいませんから、イタリア人からすると「日本人にサッカーなんてできるのか?」と言わんばかりの反応でした。まず練習の時から、ボールが回ってこない。点を取らないと認めてもらえないので、味方からボールを奪ってでも、点を取りにいきました。結果なんですよね。点を取れば、周り(選手)が変わり、監督も変わり、ファンの反応も変わってきます。すると、ボールが集まってくる。ですから、ペルージャに行った1年目に一番たくさん点を取りました。あと、試合中にイタリア語で喧嘩できて、こちらが上から指示するくらいでないと舐められます(笑)。だからイタリア語も勉強しました。
勝:
昔、レアル・マドリードにディ・ステファノという選手がいましたよね。
中田:
いましたね!
勝:
ディ・ステファノはチームを完全に支配していて、どんな優秀なブラジル人が入ってきても、彼に従わないと潰されたそうです。厳しい世界ですね。
中田:
実力だけじゃなく、リーダーシップとか、長年チームにいるとか、いろいろなことを含めて、いかに仲間をつくり、信頼を勝ち取るかが重要なのです。僕は何度かチームを移りましたが、移籍のたびにそれをやらないといけないので、大変でした(笑)。

早すぎる“引退”の真相

勝:
2006年のW杯のあと、29歳という若さで引退されましたが、W杯の最後の試合は、私の印象では「もう辞める(引退する)のかな?」と思いながら見ていました。あの時は、選手個人のレベルの差や日本のサッカーに対する幻滅みたいなものを感じていたのですか?
中田:
全然そんなことはなくて、Jリーグがない時代からサッカーを続けてきたのは、単純に“好き”だったからです。職業として選手を選んだわけでもないし、ましてやお金のためでもない。それが2000年代半ばからサッカーがどんどんビジネス化していき、チームプレーより、個人プレーに重きを置く選手が出てきたり、ただお金を求めるエージェントなどが増えてきた。そんな雰囲気が僕にはあわなかった。
勝:
W杯の時にそう感じられた?
中田:
いえいえ、W杯の2年くらい前からそんな気持ちでプレーしていました。イタリアからイギリスに行ったのも、リーグを変えたら状況も変わるかなと思って移籍したのですが、結果的に何も変わらなかった。

辞める決断をした時点では、チームとの契約も残っていたし、怪我をしているわけでもなかったので、やる気さえあれば、まだまだできたのですが、「このまま続けると、お金のためにサッカーをやることになるな」と感じて……。好きなことが職業になるのは別にいいんですけど、ビジネスが先行するのは、「大好きな家族をお金のために売る」ような気がして僕は嫌だった。「好きなことを人生を掛けてやる」というスタンスは、今も変わらないです。

世界、そして日本を旅する

勝:
引退後、世界や日本を旅するなかで印象深い出来事などはありましたか?
中田:
サッカーは世界中で人気があるので、多くの人を集めることができる。例えば、アフリカの貧困地域ではワクチンの効果を話しても、なかなか人が集まらなかったりしますが、「サッカーができるよ」「サッカーの試合があるよ」と呼びかければ、子どもたちは喜んで集まってくれます。サッカーには(現役時代は見過ごしていた)いろいろな可能性があるんだな、と気づいたのです。そこで、「一般財団法人TAKE ACTION FOUNDATION」を設立して、さまざまな活動を行ないました。
勝:
そういった社会貢献への思いが、世界をめぐる動機になったのですか?
中田:
それはむしろ逆で、旅を通して具体的な行動のキッカケやアイデアを得ました。

引退後、世界を旅するなかでサッカー以外のこと、特に日本についてよく質問されることが多かったのですが、まったく答えられなかった。「プロ・サッカー選手」という肩書が外れて、改めて「自分は日本人なんだ」と強く意識するようになり、「日本についてもっと語れたら一生の“強み”になる」「日本の伝統文化を学びたい」と思い始めました。
勝:
なぜ伝統文化なのですか?
中田:
今日、たいていのことはインターネットで調べられますよね。ところが、日本の地方に根付くような長い歴史がある伝統文化や伝統産業の情報は、オンラインではなかなか得ることができない。「文化とは、その地域の日々の生活の集積である」と考えた時、人々の日々の生活に結びついた農業、工芸、醸造業といった地域の自然からとれた食べ物や飲み物、工芸品こそが自分が知るべき「文化」なのではないかと思いました。しかしながら、長い歴史がある産業だからこそ、新たなテクノロジーにもなかなか対応しないので、オンラインに情報が出てこない。それらに接するには現地に足を運ぶしかないのです。

僕はそこに大きな価値を感じ、2009年から全国を回り始めて、今年で15年目になります。1周目はまず沖縄からスタートして“ひと筆書き”で北海道まで7年かけて、同じ車1台で回りました。最終的な走行距離は20万キロくらいになったと思います。
勝:
各地でさまざまな人にお会いしたと思いますが、紹介してもらうのですか? 飛び込みで行く時もありましたか?
中田:
旅は沖縄から始めたのですが、当時は全く情報を集める手段を知らなかったので、泊まった宿の人に聞いたりして、行き当たりばったりでの訪問でした。その後、九州から北上して行くにつれ、徐々に知識や人脈が増え、人づての紹介や業界の情報の集め方もわかり、始めは1つの県に3日間ほどの滞在でしたが、最後の北海道には約3カ月間もいました。それくらい訪問したい方たちが増えたのです。結局、沖縄から北海道まで回るのに7年かかりました。
勝:
長い旅になりましたね。
中田:
旅はその後も続けていて、1周目はひと筆書きで行きましたが、それだと特に農業の収穫のタイミングに合わないこともあって見られない物が多かったので、最近は「ここの特産は今が旬だな!」と、一番いい時期に合わせて訪問する県を決めるようにしています。
勝:
その場に行くことが大切なのですね。
中田:
現地に行って、自分の目で見て、話を聞いて、一緒に働いて、関係を築いていく。誰もが調べられるインターネットの情報ではなく、そこに行かなければ得られない価値を大切にしたいのです。

美味しい日本酒を世界に向けて

勝:
日本酒に注目されたのは、なぜですか?
中田:
伝統産業全般において、作り手が弱く、流通が強いという構図があります。加えて、農業人口をはじめ、日本酒・焼酎・醤油などの生産者数は、この数十年間ずっと右肩下がりです。それら伝統産業には何百年にもわたる歴史があり、作られているものは大きな可能性を秘めているにもかかわらず……。では、なぜ右肩下がりなのかというと、今の時代でもなかなか生産者が流通・販売までコントロールできる仕組みがないからです。

ならば、何かできないかと考えた時、国内だと昔からの流通が強固で、そこのルールを変えるのはむずかしいけど、海外向け(輸出)なら、ゼロから仕組みをつくれるのではないか、と。

十数年前は、ちょうど日本食が世界的ブームになり、日本酒の需要も伸び始めた時期でしたが、幸い海外向けの日本酒マーケットには、流通を牛耳っている事業者も既存のルールもなかった。農産物や工芸品は世界各地に素晴らしいものがありますが、日本酒は日本だけでしかつくられていない。つまり、世界に向けて何か売り出すとしたら、日本酒なら商材や販路も含めて、まったく新しいことができるのではないか、と考えたのです。
勝:
なるほど。
中田:
海外で日本酒を飲むと「状態が悪い」と思った経験が多々あります。一番の課題は消費者に届くまでの「品質管理」です。そして、それを生産者が一番望んでいます。美味しい日本酒をつくっている酒蔵は多くの場合、“マイナス5度”で保存しています。例えばワインは、輸出される時も温度管理されたコンテナで運ばれ、販売店やレストランでもワインセラーで保管されていますよね。ところが日本酒は酒販店でも常温のままだったり、流通過程の温度管理などは、あまり顧慮されていません。こうした状況を見て、日本酒をベストの状態で海外の消費者に届けるための仕組みをつくろう! 美味しい日本酒を飲んでもらえたら、自ずから新しいマーケットができるはずだ、と。もう1つ、日本酒はワインなどに比べて価格が安い。価格帯を上げていかないと売上も伸びないので、適切なプライシングを酒蔵さんと考えて、新しい商材をつくることにしました。

そうしたことを始めたのが2013年で、2015年には「株式会社JAPAN CRAFT SAKE COMPANY」を設立し、日本酒の魅力を世界に向けて発信しています。
勝:
素晴らしい取り組みですね。
中田:
「ブロックチェーン」という技術がありますが、これを(日本酒の流通に)導入すれば、生産者から消費者に届くまでの全行程をトレースできる。そのためには、1瓶ごとにQRコードを付ければいい、ということになって、「SAKE BLOCKCHAIN」というプラットフォームを考案しました。

これにより、流通過程や店舗での品質管理、在庫状況、回転数など全てが可視化され、さらにはそれらをもとに製造計画も立てることができます。「SAKE BLOCKCHAIN」は現在、開発の最終段階(トライアル)まで来ているので、もうすぐほかの酒蔵さんにも提供できると思います。

緑茶の魅力

勝:
最近、日本茶ブランド「HANAAHU TEA (ハナアウ ティー)」をプロデュースされていますが、日本茶にはどんな思いを寄せられているのですか?
中田:
この50年で茶葉の生産者は十分の一以下になり、単価も約半分になってしまいました。ところが、生産量はそれほど落ちていない。つまり、ペットボトルの消費が増えて、大規模農家に生産が集約されているのです。そうなると、小規模農家は淘汰されてしまう。これをどうにかできないか、と考えていたのですが、まずは高い値段で茶葉を買ってあげる仕組みが必要なのです。

お茶はよくコーヒーと比較されますが、食事中に飲めるのはお茶です。その点はワインと同じで、食事中に飲むから、たくさん消費される(売れる)。中国や台湾では料理と一緒にお茶を飲みますが、日本ではあまり飲まないじゃないですか。なぜかな? と思って、お茶の歴史を調べてみたら、日本にお茶が入ってきたあと、製法を変えて、旨味を濃くして、1杯を美味しくするようにしたのです。
勝:
へえ、そうなのですか。
中田:
ただ、それだとご飯には合わないので、美味しさはそのままに、食事中もたくさん飲める“食中茶”をつくろうと思ったのです。そうすれば、茶葉の需要が増えて単価も上がり、生産者の一助になるのではないか、と。

「HANAAHU TEA」は、玉露のような1杯の旨味ではなく、さまざまな料理との相性を追求するためにソムリエの知見を入れつつ、最高レベル(「全国茶審査技術競技大会」十段)の茶師が厳選した茶葉をブレンドしています。

お茶は、まず土壌・自然環境が重要で、収穫後、どう加工してブレンドするかで、味がまったく変わります。この工程は非常に面白く、奥が深いんですよ。
勝:
何事にも妥協しない姿勢は、選手時代から変わりませんね!

好きなこと、自分にしかできないことをやる

勝:
これからどのようなことをやっていきたいですか?
中田:
ビジネスを大きくしたいわけではないし、お金を増やしたいわけでもない。僕は、今、自分が好きなことを全部やりたいだけなんです。旅をすることも、伝統産業の世界に触れることも、結局、好きだからやっている。

ただ、それらを継続していくには、ビジネスとして成立する必要があり、僕のところがうまく回れば、酒蔵さんや農家さんにも商機が訪れる。

僕は普段から「我々の役割は、自動車をつくることではなく、高速道路を整備して、国内だろうと海外だろうと、作り手が“よし、行こう!”と思った時に、いつでも行ける環境を用意しておくことだ」と言っています。

世の中にはいろんな人がいますから、行く人もいれば、行かない人もいる。でも、僕の思いとしては、やろうと思った人ができない状況はなくしたいし、やりたい人が挑戦できる仕組みを整えてあげたいのです。
勝:
最後に中田さんの人生における行動指針みたいなものがあれば、教えていただけますか。
中田:
リスペクトすることと責任を持つことです。何をやってもいいし、何を言ってもかまわない。だけど、相手をリスペクトして、自分の言動に責任を持つ――この2つが大事だと思います。

誰にでも自分のスタイルとかやりたいことがあって、それが世の中と合わないこともあれば、理解されないこともあるでしょう。しかし僕は、誰かと同じことをやるのは好きじゃないので、自分にしかできないことを常に探しています。
勝:
中田さんのお話をうかがって、サッカーもビジネスも根底にある考え方は終始一貫しているな、と感心しました。今日は素晴らしいお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。


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